「盗聴器が仕掛けられている」。深夜のフロントに駆け込んできた男性は、そう叫びながら私の首に手をかけてきました。
これは、駅前のビジネスホテルでフロント業務を10年続けた女性の話です。
お客様は神様、従業員には人権なし。モンスター客の対応、支配人による奴隷労働、そして退職時にボーナスの返金を要求される「ブラック搾取システム」。寿退社で逃げ出すまでの10年を振り返ります。
高卒フリーターから、ホテルマンの世界へ
私が高卒フリーターだったのは、家庭の事情で大学に進学できなかったから。母が亡くなったことをきっかけに「ちゃんと働かなければ」と思い立ち、地元のビジネスホテルに応募しました。
面接では支配人が直接対応してくれて、感じのいい人だなという印象でした。「もしかしたら受かったかも」とワクワクしながら帰った帰り道。予感は当たり、無事に内定をいただきました。
「これで天国の母にも安心してもらえる」。そう思ったのを今でも覚えています。
しかし、この職場が「監獄」のような場所だと気づくのに、そう時間はかかりませんでした。
入社初日からほのかに香るブラック臭
入社初日、ほんのりとブラック臭が漂ってきたのを鮮明に覚えています。
まず、従業員室が異様に狭くて、なんとも言えない異臭がしていました。備品が床に散乱しており、着替えるスペースはほんの数十センチ。「これで本当にスタッフが働く場所なの?」と疑いたくなるレベルでした。
そして、研修内容も衝撃的でした。廊下の両端に支配人と私がそれぞれ立ち、向かい合って大きな声で挨拶を交わすという内容。
支配人「おはようございます!!!」
私「おはようございます!」
すると、間髪入れずに「声が小さい!!!」と怒鳴られるのです。私はすっかり萎縮してしまい、もう帰りたい気持ちでいっぱいでした。午前中はまさかの挨拶練習だけで終わり、ヘトヘトに疲れてしまいました。
さらに不可解なルールも待っていました。
休憩中の携帯電話使用が禁止だったのです。電話や接客で人手が足りないときは、休憩中でも対応するように言われていました。隣には支配人がしかめっ面で仕事をしているので、まったく気が休まりません。
「これは、想像以上にヤバい職場かもしれない」。早くもそう感じ始めていました。
個性豊かすぎる同僚たちと衝撃の初日
それでも、面接時の従業員さんたちは雰囲気がよかったので、「これくらいは許容範囲かな」と自分に言い聞かせていました。
ところが、夕方になり夜勤の人が出勤してきた瞬間、空気が一変したのです。
最初に現れたのは、結構な年配の男性。職場の最古参でした。なんと言っていいか、その人の目はめちゃくちゃ死んでいたのです。しかも、たばこの匂いが体中から漂ってきて、ひと目で「負のオーラ」を感じました。「ああ、絶望だな」と心の中でつぶやきました。
次に、バイクで颯爽と登場したのが、弱々しい雰囲気のメガネをかけた男性。ところが事務所に入ってくるなり、年配の男性がメガネ氏に向かって説教を始めたのです。
説教の内容は、「言われたことをメモに取れ」「人の目を見て話せ」というレベルの低さで、「ここは小学校か?」と錯覚するほどでした。事務所には一気に不穏な空気が流れていきました。
これが、ビジネスホテルで働く同僚たちの実態だったのです。
「特殊な職場ならではの強烈な人間関係」は、業界によって形が異なります。国会議員秘書の世界では、夫人による支配や宗教強制という独特のブラック構造があります。詳しくは国会議員秘書1年で限界|奥さん牛耳る黒い事務所と宗教強制から逃げた話で解説しています。
お客様は神様、従業員に人権なし
衝撃的な初日を乗り越えて、毎日頑張って出勤を続けました。少しずつ全員に挨拶を交わせるようになり、優しい人もいたので徐々に職場に慣れていきました。
しかし、本当の地獄はここからでした。
駅前のリーズナブルなビジネスホテル、ある意味で「地雷物件」です。理由は明確で、安い経費しか出してもらえない会社のサラリーマンが多く、職場の理不尽なストレスを溜め込んでいる人が大半。彼らは駅前の安居酒屋でしこたま酔っ払い、ホテルにチェックインしてくるわけです。
民度が低く、なけなしのプライドを真摯に仕事をする若いフロントマンに誇示することで、なんとか自我を保とうとする。そんな人たちが日々訪れる職場でした。
実際にあった理不尽行動を挙げると、こんな感じです。
・インクが出ないと言ってボールペンを投げつける
・予約検索に手間取ると怒鳴り散らす
・自分の手違いで別のホテルに予約していたのに逆ギレする
・部屋で大音量の音楽を流し続ける
・1週間窓を開けても匂いが取れないお香を炊く
・尿や便を垂れ流したまま、何も言わず平気な顔でチェックアウトする
これらはまだ「可愛い方」でした。たまに、本当に「ホンモノ」のお客様が現れるのです。
「お客様は神様」という言葉のもとで従業員が犠牲になる構造は、サービス業全般に通じる問題です。介護業界でも同じ構造があり、「顧客満足第一主義の沼」と呼ばれる現象が起きています。詳しくは「顧客満足第一」が従業員を潰す|高齢者施設で介護職2年半・年収290万のリアルで解説しています。
危険なお客様との遭遇、衝撃のエピソード集
ある日、深夜のフロントに男性が駆け込んできました。
「部屋に盗聴器が仕掛けられている」と叫び、目が血走っています。話を聞こうとする間もなく、その男性は私に向かって手を伸ばしてきました。私の首に手をかけ、力を込めようとしてきたのです。すぐに別の従業員が止めに入ってくれましたが、命の危険を感じた瞬間でした。
別の日には、すっ裸の上にガウンを羽織って裸足の男性がロビーをウロウロしていました。手にしたカバンの中には大量の札束。
「俺には金がある!病院から抜け出してきた。家族に狙われているから、絶対にここにいると言うな!」
脱走兵のようなことを叫ぶ男性に、フロント業務をしながら対応する精神的疲労は計り知れません。
子供を連れて部屋に立てこもった男性が、危険な行動に及ぼうとした事件もありました。警察が駆けつけて大事には至りませんでしたが、一歩間違えば取り返しのつかない状況でした。
そのほか、こんなトラブルもありました。
・猫を勝手に連れ込み、室内に糞尿をまき散らす客
・あることないことを言いがかりで指摘し、従業員を3時間拘束。最終的に土下座を強要する客
「お客様は神様」という言葉が、これほど従業員の人権を踏みにじる言葉だと、心の底から実感した10年間でした。
支配人は守ってくれない、口コミ評価の奴隷
これだけのモンスター客が来ても、支配人は彼らを追い出すことをしません。
理由は明白でした。下手なことをすると、口コミに悪評を書かれるからです。
口コミは常に本社が監視しており、低評価がつくと支配人の人事評価に直結します。だから支配人は、従業員がモンスター客に絡まれていても知らん顔で自分の仕事を続け、定時になればさっさと帰っていく。
「ある意味、お前が一番のモンスターじゃないか?」
何度そう思ったかわかりません。
私たちフロントスタッフは、口コミ評価という見えない鎖につながれた、奴隷のような存在だったのです。
ボーナス返金システムというブラック搾取
この職場が、ひっじょーに離職率が高かったのには明確な理由があります。
ボーナスを貰ってから辞めることが、できないのです。
正確に言うと、辞めた瞬間にボーナスの返金を要求されるシステムでした。
「ボーナスにはこれからの期待値が含まれているから、辞める人には渡さない」というのが会社の言い分です。しかも、ボーナス支給後の1ヶ月以内に退職した場合も、容赦なく返金を求められます。
入社時に、その旨が記載された書類にサインさせられているので、おそらく裁判になっても勝てないでしょう。
「なんてセコいシステムなんだ」と心の底から思いました。
このボーナス返金システムが、辞めたくても辞められない従業員を縛り付ける、強力な鎖になっていたのです。
ブラック企業ならではの「サインを強要されるブラック搾取システム」は、業界を問わず横行しています。家族経営の介護施設でも、タイムカード勝手切りや有給強制使用といった搾取構造が告発されています。詳しくは家族経営の介護施設2年で退職|「爛れていないから大丈夫」発言で目が覚めた話で解説しています。
結婚を機に、ブラックホテルから脱出
そんな環境で10年。私は結婚を機に、寿退社という形でブラックホテルを退職することができました。
しかし、退職時の対応も酷いものでした。
10年も勤めたのに、労いの言葉ひとつなし。むしろ「裏切り者」のような扱いを受け、送別会も開いてもらえませんでした。
10年間、深夜のモンスター客対応も、支配人の理不尽な要求にも、ボーナスを返金する屈辱にも耐えてきたのに、最後がこれか。
「監獄のような10年だったな」。
退職した日、夕日を見ながらそう呟いたのを今でも覚えています。
監獄のような10年から、自由な未来へ
退職してから気づいたことがあります。
ブラック企業で働く従業員は、資本主義の奴隷だ、ということです。
口コミ評価という鎖、ボーナス返金システムという鎖、そして「お客様は神様」という呪文。これらに縛られて、自分の時間も人権も差し出して働いていたあの10年は、本当に監獄のような日々でした。
しかし、不思議なものです。
今振り返ると、若いうちにあの経験ができて本当に良かったと思っています。理不尽な世界の構造を、身をもって理解することができました。
退職してからは、株式投資や個人事業、大家業の勉強を続けています。誰かに搾取される側ではなく、自分の足で立つ働き方を模索しているのです。
10年間のブラックホテル経験は、なんだかんだで刺激的で楽しい時間でもありました。色々なお客様、色々な同僚、色々な事件。一生忘れられない経験を山ほど積めました。
「ありがとう、ブラックホテル」。
今なら、そう言える気がしています。
- Q体験者がブラックホテルを辞めた決定打は何だった?
- A
結婚を機に寿退社という形で退職を決めました。10年勤めて支配人やお客様の理不尽さに耐えてきましたが、結婚という人生の転機が「もうこの環境にいる必要はない」と決断する後押しになったそうです。
- Q駅前ビジネスホテルにはどんなお客様が多かった?
- A
体験者の経験では、安い経費しか出してくれない会社のサラリーマンが多く、駅前の安居酒屋で酔っ払って帰ってくる人が大半だったそうです。中には盗聴器の妄想で従業員に襲いかかる人や、裸でガウン姿でロビーをウロウロする男性などのモンスター客もいたとのこと。
- Q「ボーナスを返せ」と言われるブラックシステムの仕組みは?
- A
体験者が勤めていたホテルでは、ボーナス支給後に退職する人はボーナスの返金を要求される仕組みでした。「ボーナスは将来の期待値を含む」という名目で、入社時に同意書にサインさせられる構造。退職を考えていてもボーナス時期は辞めにくくなる、強力な鎖になっていたそうです。
- Q支配人はモンスター客に対してどう動いていた?
- A
体験者の職場の支配人は、モンスター客でも追い出すことはしませんでした。理由は口コミ評価が本社の支配人評価に直結するため。従業員がモンスター客に絡まれていても支配人は知らん顔で仕事を続け、定時になれば帰っていったそうです。
- Q10年勤めたブラックホテルから得たものは?
- A
体験者は「若いうちにこの経験ができて良かった」と振り返っています。退職後は株式投資・個人事業・大家業など、自分の足で立つ働き方の勉強を始めたそうです。10年間の理不尽な環境に耐えた経験が、独立して生きていく強さに繋がっているとのこと。

