「掃除なんて楽だろう」
本気でそう思って、私は旅館の清掃員になりました。
これは、人から逃げたくて選んだ仕事で、結果として5年続けた私の話です。
📌 体験者プロフィール
・業界・職種:旅館の清掃員
・在籍期間:5年
・当時の立場・役職:清掃スタッフ
・退職状況:退職を前提に現在休職中
・体験形態:実体験ベース
※プライバシー保護のため、個人が特定されない範囲で仮名化・一部詳細を変更しています。
「人から逃げたい」だけで選んだ清掃という仕事
「働く=人間関係だろ。人間関係=もう嫌」
当時の私の頭の中は、ずっとこれでした。
人と関わるのがしんどい。でも生きていくにはどこかで働かないといけない。そんな思考しかできなくなっていた時期に、ふと頭に浮かんだのが「掃除の仕事」でした。
掃除なら年配の方しかいなさそうだし、誰もしたくない仕事だからすぐ面接も受かるだろう。適当にやっても稼げる。そう思って清掃の求人に応募することにしました。
自分の選ぼうとしている業界がどんな世界なのか、そのときの私は何も知らなかったのです。
掃除と一口に言っても、いろんな現場があります。私が選んだのは旅館の清掃員でした。
お客様に提供する場だから、もともと館内はきれいなはず。普通の家の掃除よりは楽なんじゃないか。そんな甘い見立てで、面接を受けに行きました。
ふたを開ければ、現実はまったく違いました。
10部屋を5時間で仕上げる、旅館清掃のリアル
「掃除なんて楽」だと思っていたのに、初日から想定の何倍も忙しい。腰は痛くなる、手はガチっと凝り固まる、肩は張る。
何より、お客様のお部屋の使い方が想像をはるかに超えて汚いのです。
「こんなに一泊で汚せるもの?」
最初の頃、頭をよぎるのはほとんどこれでした。
なぜそんなにきついのか。少し具体的に書いてみます。
旅館の清掃は、午前10時のチェックアウトから午後3時のチェックイン開始までの間に、お客様が出ていったお部屋をすべて仕上げ直さなければいけません。実質、作業に使える時間は5時間。
お客様によっては早めに到着される方もいるので、実質的なリミットは午後2時くらいでした。
私が任されていたのは、1人で10部屋です。
頭の中で時間を割ってみてください。
・大浴場の男湯と女湯、合わせて30分
・1部屋あたりトイレ掃除3分×10部屋=最低30分
・1部屋あたり掃除機5分×10部屋=50分
・そこにふすまのレール拭き、窓と窓のレール、洗面、布団の上げ下ろし、アメニティの補充、ゴミ集め……
ここに並べたのは作業の一部です。5時間という枠の中に、いかに密度の高い動きが詰め込まれているか、なんとなく見えてくると思います。
「掃除なんて楽」と気軽に始めた人間が想定していた仕事量では、ありませんでした。
しかも仕上がりの基準は厳しいのです。「お部屋に髪の毛一本でも落としていちゃいけない」のが当たり前のレベル。
大げさに聞こえるかもしれませんが、毎日毎日この基準と向き合うだけで、確かに精神は削られていきました。
「最低賃金で当たり前」と頭で分かっていても
清掃の給料は安いです。世間的にも、安くて当たり前のイメージがあります。
仕事内容は「誰でもできる」と言われがちで、勤務時間も朝早すぎず夜遅すぎず、肉体的にも事務職よりは身体を動かすけれど、専門技術がいるわけでもない。条件だけ並べれば、最低賃金は妥当。頭では、そう理解できます。
ただ、現場の実態が「お部屋に髪の毛一本残してはいけない」レベルだと、その理解が体の中で噛み合わなくなってきます。
最低賃金の労働力に求めていい完璧主義のラインを、明らかに超えてきている。そんな違和感が、毎月の給料明細を見るたびに、じわじわ大きくなっていきました。
雇い主は掃除未経験で、現場のきつさをそもそも知りません。だから「これくらいの賃金で大丈夫だろう」と思い込んだまま、現場の負荷は増えていく。
そのギャップに、ずっと気持ちが持っていかれていました。
葛藤はどんどん強くなり、退職を考え始めたのも、この頃です。
それでも5年続けられた、お客様レビューという救い
それでも辞めずに5年続けられた理由は、はっきりあります。
お客様からのレビューでした。
「お部屋が本当にきれいでした。髪の毛一つ、埃一つ落ちていなかったのにはびっくりです」
抜き打ちで覆面調査のような方が来られることもあって、そういった方からも、
「テレビの後ろや、ここは絶対埃あるだろうと思う高いところまできれいに掃除されていて驚きました」
そんな声をいただくことがあって。
体は疲れ切っているし、給料には納得しきれない。それでも「あの人が見てくれていた」「気づいてくれていた」という事実だけで、不思議と次の日もまた、髪の毛一本まで取りに行く気持ちになれるのです。
頑張ることって大事——うん、本当にそう思える瞬間でした。
この感覚に支えられて、私は5年続けることができました。
「人から逃げて入った仕事」が「人と出会う仕事」に変わるまで
途中で気づいたのは、自分の中の変化です。
「お客様、こんなに汚しまくるってことは、それだけゆっくり過ごせてた、リラックスできてたってことなのかもしれない」
イライラの真ん中で、ふとそんな考え方をしている自分がいました。
ん?お客様のことを考えてる、私。
人から逃げたかったはずなのに、人のことを思って手を動かしている。
たぶん、見ず知らずのお客様が汚したお部屋をきれいにする、という行為そのものが、人に慣れるための練習になっていたのだと思います。
掃除という仕事をしながら、人のために手を動かす。それが、人から逃げ続けていた自分にとって、ゆっくりとした人慣れの時間になっていました。
会社の人間関係は、苦しんだ記憶がほぼありません。フレンドリーで、求人サイトでよく見る「アットホームな職場です」という言葉が、皮肉ではなく本当に当てはまる場所でした。
全国からいろんなお客様が来てくれて、清掃だけでなく、お料理、仲居さんの予約時の聞き取りからお迎え・お見送り、その後の接客まで、すべての持ち場が「おもてなし」で1本につながっている職場でした。
だから、お互いの仕事を尊重して、自然に助け合える空気が流れていたのだと思います。
こんな会社はなかなかないと感じています。次にもし別の会社で働くことがあったら、自分がこの空気を作る側にまわれるようにしたい。そんなことを今は考えています。
退職を前提に休職した今、振り返って思うこと
今の私は、退職を前提に休職しています。
「人間関係で辞めようと思ったことは一度もない」——これは振り返っても本当にそうです。それくらい良い会社だったのに、それでもこの仕事を続けることが、体力的に難しくなってきた。
労働強度と給料、その2つだけは、どうしてもギャップが埋まらなかったのだと思います。
ただ、嫌な思い出として全部しまい込みたいかというと、まったく逆です。
他人のために一生懸命になることって、どの会社にいても、生きていく上でも、結構大事なことなんじゃないかと、あらためて感じています。
旅館に泊まりに来てくださるいろんな方と出会えて、それを楽しい・良い経験だと思える人なら、一度経験するとなかなか面白い職業だと思います。
人から逃げるために選んだ掃除が、人と出会うための掃除に変わった——それが私にとっての、5年間でした。
「人はいいのに条件がきつい」で辞められずにいる人へ
この話の逆説は、人から逃げたくて選んだ掃除が、見ず知らずの客の部屋を整えるうちに人慣れの練習になっていったことです。
それでも辞める理由は人間関係ではなく、最低賃金に求めていい完璧主義のラインを超えた仕上がり基準と、賃金とのギャップでした。
人の良さと労働強度への対価は別の問題で、体が続かないと感じるなら、その違和感は正当です。
困った時の選択肢
【「人間関係は良いのに、条件がきつくて続けられない」と感じている方へ】
職場の人はいいのに体が続かない——そんな状況は、辞めるか我慢かの二択で抱え込むと、答えが出にくいものです。対人ストレスを抱えやすい人や、自分に合う働き方を一度整理したい20〜30代の方には、転職を前提にしないキャリアコーチングという選択肢があります。
そのほか、状況に合わせて選べる窓口を挙げておきます。
・心と体がすり減っている・自分を整理したい方は
→ Awarefy(自己理解・セルフケアアプリ)
公的な窓口としては、総合労働相談コーナー(厚生労働省・賃金/労働条件の相談)や、よりそいホットライン(0120-279-338・24時間・無料)が無料で相談に乗ってくれます。
気になった一冊を、まず無料で試す方法もあります。働き方の見直しや、対人ストレスとの付き合い方を書いた本も読めます。
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一日中かがんで布団を上げ下ろしし、浴室やトイレを磨く仕事だと、腰への負担は相当なものになります。中腰の作業が続く日に、腰を支える腰用サポートベルトを使っている人もいます。

